矯風会創設の頃


WCTU(米国女性キリスト者禁酒同盟)二代目会長 フランシス・ウイラード

19世紀にはいると、アメリカでは独立後、安価な蒸溜酒の供給により、過度な飲酒という深刻な社会問題が引き起こされるようになりました。米国女性キリスト者禁酒同盟-WCTU二代目会長フランシス・ウィラードの指導の下、多くの女性がこの禁酒運動に参加し 、酒屋を店じまいさせるなど次々と成果を挙げていきました。フランシス・ウィラードはノースウエスタン大学の初の女性学部長でしたが、学部長としての高い社会的地位や高給、運動を理解しないフィアンセと別れ、運動に専念しました。


ミセス・メリー・C・レ・ビットとミス・ウエスト

1886年6月(明治19年―日本にキリスト教の禁止が解かれて13年)禁酒運動の講演のためにWWCTU(世界女性キリスト者禁酒同盟)からメリー・レビットが来日しました。レビットは「女性の禁酒の会だから、聴衆も通訳も女性を集めてほしい」と言ってきました。レビットの第1回の講演会参加者は600人を超え、その後5か所で講演、2000人を超えました。
レビットはアメリカで教会女性が中心となって行った50日の禁酒運動で2000件を超える酒屋が閉店したこと、今やこの働きが禁酒のみならず、アヘンの禁止、売春の禁止にまで広がりつつあることを告げました。
レビットは壇上で「私たちアメリカの会の活動方針は、『まず刺激し、次に教育し、組織する』ことです。どんなにすばらしいことを考えても、ただ一人の力ではたかが知れています。みんなで手を組んで団結しなければなりません。しかしまた、いかに個人が弱くとも、誰か一人からはじめなくてはならないのです。だれかがやるだろうと、みんなが思っているのでは、事がなりません」と語ったそうです。

この日のレビットの講演会は多くの人々を感動させ、その中に当時一印刷工であった山室軍平がおり、彼が禁酒と売春防止に力を尽くす原点となりました。

写真(上)のウエストは世界女性キリスト者禁酒同盟から派遣され、1892年に来日し講演旅行中に金沢で病死されました。ウエスト葬儀の時、当会初代会頭矢嶋楫子が打ち鳴らした鐘は、会員津田仙が各地で喫煙の害を説き、禁煙した人々のキセルを集めて鋳造したものでした。

1886年:矯風会の設立

矢嶋楫子

世界女性キリスト者禁酒同盟の特派員レビットの来日に刺激を受け1886年、東京日本橋教会において潮田千勢子や佐々城豊寿ら56名の会員をもって「東京婦人矯風会」が発足し、初代会頭に矢嶋楫子が選ばれました(当時53歳)。「禁酒会」ではなく「矯風会」としたのは、禁酒ばかりではなく、風を「矯める」(正しくないものを直す)会ということをわかりやすく表現するためでした。

矢嶋楫子は熊本県出身です。酒乱の夫、封建的で男尊女卑の婚家で、心身衰弱で半分目が見えなくなるほどまで我慢しましたが、結婚10年で離婚、周囲の非難を背に1872年(明治5年)に上京しました。教員伝習所に学び、小学校教員をへて新栄女学校教員、桜井女学校校首代理となりました。1879年に受洗しキリスト教徒となりました。1890年には女子学院の初代院長に就任しました。 1893年に全国組織となった日本キリスト教婦人矯風会会頭として廃娼運動に奔走、女性キリスト者禁酒同盟世界大会や国際軍縮会議にも参加。生涯をキリスト教精神に基づいた女子教育・婦人運動に尽くしました。

雑誌の創刊

「東京婦人矯風雑誌」1号

 そして1888年4月に「東京婦人矯風雑誌」が創刊されました。明治以降、娼婦や売春に対する差別や抑圧が強くなる中で、編集委員の浅井柞は、雑誌の巻頭言「矯風会の目的」の中で「娼婦も等しく之れ人なり、我等が姉妹同胞にあらずや」(娼婦も等しく人であって我らの姉妹であり仲間ではないか)と述べています。
その後「東京婦人矯風雑誌」は名前を「婦人新報」に改め、創刊125年、1300冊を超え現在まで発行を続けています。